住職就任のご挨拶


平成十五年(二〇〇三)一月十八日に当山第二十七世佛山宗道大和尚が遷化され、同二月一日付をもって曹洞宗管長より辞令を受け、第二十八世住職に就任いたしました。
昭和五十八年七月に副住職に就任するにあたり、すでに檀徒総代会で後任住職としての了承を頂いておりましたので、住職遷化にともない自動的に副住職が住職となった次第です。

とはいえ、私といたしましては、自らの所信を述べ、その上で檀信徒の皆様の信任を得て住職になるという形式をとりたいと以前より考えておりました。
本来、寺院は住職(個人)の所有するものではなく、世襲すべきものでもなく、住職もまた寺院を支える者の一人であり、檀信徒の皆様すべてによってよりよいかたちで護持していかなければならないものであると思うからです。
信任を得るという形式はとれませんでしたが、ここに以下、私の思うところを申し上げてご挨拶とさせて頂きます。
 

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2012/05/20

曹洞宗における信

Tweet ThisSend to Facebook | by:角田泰隆

信じるとはどういうことか?

答え:自己をわすれて、仏祖の教えに従うこと。

道元禅師は、『正法眼蔵』「現成公案」の巻で次のように示している。
仏道を習うということは、自己を習うのである。自己を習うというのは、自己を忘れるのである。自己を忘れるというのは、万法(あらゆる存在)に証〔さと〕らされるのである。
仏の道においては、まず、この自分が問題となる。自分とは何か、私は何者なのか、いったい自我意識とは何か、なぜ自分は、この自分を自分と思い、何よりも自分を大切にするのか……と。この自分自身を明らかにするのが仏の道の大前提であり、仏の道はここから出発する。それでは、「自己を習う」(自分自身を明らかにする)とはどういうことかと言えば、道元禅師は、「自己を忘れる」ことであると言われる。つまり、「自己を習う」と言っても、自己を追究してゆくのではなく、むしろ追究してはならない、忘れろという。

ほんとうに「忘れる」ということでいいのだろうか、と疑問に思う。しかし、そのように疑問に思わすに、その教えに従う、それが「信じる」ということである。

これに関連して思い浮かぶことがある。釈尊が、難行苦行の結果、悟りを開き、悟りを開いて後、難行苦行の無用であることを語ったことである。難行苦行はほんとうに無用であるのか、釈尊がもし最初から難行苦行しなかったら、悟りは開けたのかどうか?

ここに、私たちは、釈尊と同様のことを繰り返す必要があるのか? そうではないように思う。釈尊は、結局、苦行(肉体を徹底的に苦しめる修行)の無意味であることを悟り、人々に苦行は必要ないと語り、苦行にも快楽にも向かわない「中道」を説かれた。私たちは、それを信じて、苦行を行わず、中道を行えばいいと私は思う。そこに「信じる」ということがあるのである。
16:00 | 曹洞宗