世は、まさに争いの時代だった
長い間の南北朝対立は、足利尊氏が幕府を開いた後も続きました。元中九年中央において両統迭立の下に和平なり、翌年応永と改元したのでした。ところが、大覚統が皇位を得なかったので、南朝に関係のある遺臣たちは南朝再興のために政争すること五十余年に及びました。
幕府は諸国に守護・地頭を置き、信濃の国には小笠原氏が守護になったのであります。
足利尊氏は、後醍醐天皇の霊を弔うためもあって、興国元年、安国寺と天龍寺を建立し、ようやく寺院の建立も盛んになってきました。
一方、地方に一歩足を踏み入れると、うち続く戦乱に土地は荒れ、住民は深い苦悩に満ちた生活にあえいでいました。
上求菩提、下化衆生
このような世相において、人々には密教的神仏混合の信仰が崇拝に適したものであったのでしょう。都を中心として輸入仏教を理解した人たちの他に、山岳修行を通じて大衆と接触し、教化を行っていた人々も多くあったのです。
そのような世相を背景とし、山岳修行を励みながら、他方では大衆教化救済の誓願、いわゆる「上求菩提、下化衆生」の精神に燃える慈悲深き一人の旅僧によって護法山常圓寺は西山の地に開創されたものと思われます。
そこに一人の旅僧が現れた
応永も初め頃、山岳修行の厳しさと大衆教化の慈悲心を具備した一人の旅僧が、秋の日もまさに西山に落ちんとする頃、伊那の里西山を訪れ、人々の生活の有様や、諸々の苦悩を聞き、衆生済度のため寺院建立を一大発願をしたのです。
旅僧により苦悩を救われ、病める身体に薬を与えられ、生きる道を教え導かれた近隣の多くの村人たちは、この発願を伝え聞いて馳せ参じ、木曽駒連峰を背にして指呼に経ヶ岳をのぞみ、遠く明石連峰の雄姿を望見できる、満々と水を湛えた池の近くに旅僧と力を合わせ一寺を建立しました。
600余年の歴史が始まった
旅僧は、西山の和尚さん・山寺の和尚さんと敬われたのです。この建立のなったのが応永六年(1399)のことでした。
西山の地、現在寺社平と呼ばれる地は、その昔は坐籠と呼び、寺屋敷があったといわれています。前の尾根は東鉾・西鉾、その中間の峰を大立、さらに一の沢・一の関と呼ばれるところがあったようです。これらの名称と位置はすべて常圓寺に関連があると思われます。寺社平に行くには一の沢の尾根を通ったものです。
この寺社平の寺屋敷には、
昭和四十位年春に記念碑が建立されました。
その碑の正面には
「常圓寺開創之地」と刻まれています。