住職就任のご挨拶


平成十五年(二〇〇三)一月十八日に当山第二十七世佛山宗道大和尚が遷化され、同二月一日付をもって曹洞宗管長より辞令を受け、第二十八世住職に就任いたしました。
昭和五十八年七月に副住職に就任するにあたり、すでに檀徒総代会で後任住職としての了承を頂いておりましたので、住職遷化にともない自動的に副住職が住職となった次第です。

とはいえ、私といたしましては、自らの所信を述べ、その上で檀信徒の皆様の信任を得て住職になるという形式をとりたいと以前より考えておりました。
本来、寺院は住職(個人)の所有するものではなく、世襲すべきものでもなく、住職もまた寺院を支える者の一人であり、檀信徒の皆様すべてによってよりよいかたちで護持していかなければならないものであると思うからです。
信任を得るという形式はとれませんでしたが、ここに以下、私の思うところを申し上げてご挨拶とさせて頂きます。
 

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2012/09/01

道元禅師の坐禅

Tweet ThisSend to Facebook | by:角田泰隆

真の坐禅との出会い

道元禅師は十三歳の時、純粋な求道心にもえて出家し、比叡山にて仏教を学ばれた。当代一流の高僧に参じて修行されたが飽きたらず、ついに二十四歳にして中国に渡り、名声高き諸禅師に参学される。

しかし、それでも道元禅師は満足を得ることができなかった。やるせない思いのままに帰国を考えられていたとき、たまたま如浄禅師に相見する。それはまさに「坐禅」との出会いでもあった。

もちろん、道元禅師とて修行法の一つとしての坐禅は知っていた。しかし道元禅師の知る坐禅は、悟りを得ることを目的とした修行であり、多々ある修行の内の、その一つの方法であった。しかし、如浄禅師の坐禅は違っていた。

如浄禅師は、「坐禅(参禅)は身心脱落(悟り)である」と説いていた。つまり「坐禅」そのものが「悟り」であると教えていたのである。

一般的に、悟り(身心脱落)とは、修行(坐禅)の結果として得るものとされ、修行を積んで、その到達点として「悟り」があると考えられていた。しかし如浄禅師の「坐禅」はそうではなかったのである。

「坐禅は身心脱落である」というのは常識を越えた言葉であった。そしてこの常識を越えた「坐禅」こそ真の坐禅であり、正伝の仏法であると道元禅師は確信するに至った。

帰国した道元禅師はまず『普勧坐禅儀』を著した。この書は、如浄禅師より教えられた正しい坐禅を説き明かすとともに、具体的な作法を示して、人々に坐禅を行うことを勧めたものである。この中で道元禅師は、
正伝の仏法における坐禅は、悟りを得るための坐禅ではない。ただ、これは安楽の法門である。菩提を究め尽くす修証である。
と説かれている。
16:00 | 坐禅