道元禅師の御生涯[四]

四、帰郷

 宝慶三年夏、道元禅師は既に嗣法し、如浄禅師の認める後継者の一人となっていました。
 嗣法というのは、いわゆる免許皆伝であり、その証明を受けていました。
 しかしながら、なお道元禅師は如浄禅師禅師のお側にお仕えしていました。


 このころ、如浄禅師禅師は、もうかなり老衰し、余命幾ばくもない状態でしたが、道元禅師は帰国を決意されました。
 師の遷化(僧侶が亡くなることをいう)を看取ってから帰国することもできたでありましょうし、道元禅師もそれを望んだと思うのですが、如浄禅師禅師は道元禅師に一日も早い帰国を勧めました。
 道元よ、早く日本に帰って、正伝の仏法を弘めるのだ。(『行状記』)
 これが、真の師の言葉であり、仏祖の思いでありました。
 如浄禅師禅師にとって、道元禅師に看病してもらったところでどうなるものでもなかったのです。
 それよりも、一日もはやく日本に帰って、仏祖の正しい教えを弘めること、それこそが如浄禅師禅師の願いでありました。
 道元禅師は、師の思いを知り、帰国を決意したのです。
 それからまもなくの七月十七日、如浄禅師禅師は遷化し、道元禅師は、すでに帰国の途上にありました。
 時に、安貞元年(一二二七)、道元禅師二十八歳の時のことです。


 帰国後まもなく、道元禅師は、『普勧坐禅儀』を著しました。この書は、如浄禅師より教えられた正しい坐禅を説き明かすとともに、具体的な坐禅の作法を示して、人々に坐禅を行うことを勧めたものです。
 正伝の仏法における坐禅は、悟りを得るための坐禅ではない。ただ、これは安楽の法門である。菩提を究め尽くす修証である。(『普勧坐禅儀』)
 道元禅師は、普く人々に坐禅を勧めました。ここで勧められる坐禅の大きな特徴は、「習禅」(悟りを目的とした修行としての坐禅)ではなく、「安楽の法門」としての坐禅であることでした。


 当時、坐禅というと一般的には、悟りを得ることを目的とした修行であり、その一つの方法であると思われていました。
 道元禅師は、普く人々に坐禅を勧めるにあたり、そのような誤解を正さなければならなかったのです。
 なぜなら、自ら中国に渡り如浄禅師より伝えられた正伝の仏法における坐禅はそうではなかったからです。
 坐禅は悟りを得るための苦行ではなく、安楽の行であり、さらに言えば悟りの行であり、仏の行であったのです。