道元禅師の御生涯[六]

六、比叡山の圧迫

 道元禅師は、その教えを世に打ち出す好機を迎えていました。
 このことは、国中に正しい仏法を伝えたいと願う道元禅師にとって、何よりの喜びでありましたが、一方で、比叡山からより強い圧迫を受けていました。
 比叡山は、自らの拠り所とする天台宗のほかに、新しい宗旨や信仰のおこることを警戒し、すでに念仏宗の布教を停止させ、さかのぼる建久五年(一一九四)には、大日能忍の日本達磨宗や、栄西の禅宗の停止を朝廷に奏請(天皇に申し上げて裁可を願う)し、日本達磨宗の能忍は、京都にいられなくなって多武峯(奈良県)に逃れ、その後、非業の死をとげていました。
 道元禅師や興聖寺とて、例外ではなかったのです。
 比叡山の執拗な圧迫が続けられていました。


 比叡山の圧迫が激しさをました寛元元年(一二四三)年夏、道元禅師の身にも危険が迫っていました。
 すでにそのような状況を見て取った波多野義重は、越前(福井県)への移住を勧めたのです。
 道元禅師にとって、もうそれしかありませんでした。
と同時に、道元禅師の脳裏には、
  お前はずいぶん若いが、年老いた高僧のような優れた風貌がある。
  山深く修行して仏祖の踏み行われた行いを実践しなさい。
  必ずや道が開けるであろう。(『宝慶記』)
という如浄禅師の言葉が思い起こされたに違いありません。
 道元禅師は、興聖寺を弟子に任せ、十数年の歳月を過ごした京の都をあとにし、寛元元年(一二四三)七月、越前の地に移られました。
 時に、四十四歳でした。