永平寺においては、きわめて綿密な行持が行われていました。
道元禅師は、日常生活におけるすべての行いが修行であり、その修行は、悟りを開くための手段ではなく、大切なかけがえのない行為であると説かれました。
永平寺においては、仏の教えにのっとった綿密な行持が行われ、まさに、一瞬一瞬を、大切に、真剣に生きる修行が続いていました。
自分たちを仏に同化させる行であったのです。
ある時、永平寺でひたすら修行生活を送る道元禅師のもとに、思わぬ知らせが届きました。
波多野義重より、鎌倉へ下向してくれないかとの要請でした。
関白家の出身で、独力で入宋を果たし、中国から新しい禅の流れを汲む仏法を伝えた道元禅師の名声は、鎌倉の北条時頼にも伝わっていたと思われます。
時頼は、波多野氏と道元禅師との深いつながりを知り、鎌倉へ呼ぶように要請したのでしょう。
道元禅師は波多野氏の立場を察して鎌倉下向を決意しました。
宝治二年(一二四八)年八月、道元禅師は永平寺を立ち、翌三月帰山するまで、約半年鎌倉に滞在しました。
宝治元年四月には、三浦氏が藤原頼経を擁して復権をもくろみ、北条氏によって一族みな殺しになるという事件が起き、鎌倉は武家の勢力抗争の修羅場となっていました。
そんな政情のさめやらぬ鎌倉での滞在の日々は、仏法を広めるという志に支えられてはいたものの、苦痛を伴うものであったにちがいありません。
道元禅師にも、この鎌倉行きを契機に正伝の仏法を天下に広めたいという願いがあったかもしれませんが、結局それは、実りあるものではなかったようです。
かえって、正伝の仏法を普く広めることの困難さを知ったのかもしれません。
宝治三年春、道元禅師は鎌倉を離れ、三月十三日永平寺に帰りました。