道元禅師の御生涯[五]

五、興聖寺を開く

 このような坐禅を人々に勧め、正しい仏法を国中に広めたいとの強い願いを持った道元禅師は、帰国の翌年、安貞二年(一二二八)、京都に入り、建仁寺に身を寄せてその実現をはかりました。
 しかし、その願いを実践することは容易なことではありませんでした。
 かつて栄西禅師は、純粋な禅の教えを日本に広めようと志しながら、当時仏教界との軋轢を避けて、天台や真言の教えの布教も兼ね備えた道場を開きましたが、そのような妥協を全く考えなかった道元禅師にとって、禅の流れを汲む「正伝の仏法」の布教は非常に困難であり、まさしく浮き草に寄るように、縁あるところに身を寄せなければなりませんでした。
 寛喜二年(一二三〇)には深草極楽寺の別院安養院に移りました。あちこちに仮住まいする苦難の数年を過ごさなければならなかったのです。


 そのような雲遊萍寄(雲の流れるごとく、浮き草の漂うごとく)の生活のなかでも、道元禅師は、自ら伝えた教えを明らかにし、それを人々に伝えようと、寛喜三年(一二三一)に、『弁道話』を撰述されました。
 先の『普勧坐禅儀』が坐禅の儀則について中心に示されたのに対し、『弁道話』は坐禅に関する十八の設問自答を通して、正伝の仏法における坐禅の意義を明らかにされたものです。
 腰を据えた布教の拠点のない道元禅師でありましたが、それでも、まことの道理を諸処で語る道元禅師の名声は、月日を追って高まり、在俗の信者も次第に増え、ついに、六年の歳月を経た天福元年(一二三三)、京都深草の極楽寺の旧蹟に、観音導利興聖宝林寺(興聖寺)を開くことになったのです。


 興聖寺を開いた翌年には、後に道元禅師の後を嗣ぐ懐奘禅師(一一九八~一二八〇)が参随(入門)しました。
 懐奘禅師は、日本達磨宗の宗徒でありましたが、道元禅師と法論を交わす内に、その教えがまことの仏法であると信受し、道元禅師の一番弟子となり、修行僧のリーダーとなりました。
 そののち道元禅師の名声は、ますます上がり、多くの僧侶や一般の信者が集まりました。
 伝記によれば、修行僧は五十人を超え、受戒の僧俗だけでも二千人を超えていたと言われます。