道元禅師の御生涯[二]

二、正師を求めて

 二月二十二日、京都の建仁寺を出発した一行は、九州博多にいたり、準備をととのえて、三月下旬、船出し、四月初旬には中国の明州慶元府の寧波港に到着しました。
 明全和尚は直ちに中国禅院五山の一つ、天童山景徳寺に上りましたが、道元禅師はしばらく船中にとどまりました。
 その理由は明らかではありませんが、中国と日本との間で、僧侶の扱いの基準の違いがあり、それに関わる問題であったのではないかと思われます。
 僧侶の修行道場での順列は、生まれてからの年齢ではなく、出家後の年数、つまり僧侶としての戒律を受けてからの年数(これを戒臘と言います)によって定められています。


 ところが当時、日本と中国では戒律の種類が異なっており、中国では具足戒(比丘戒)と菩薩戒が、日本では菩薩戒のみが用いられていました。具足戒は、小乗仏教における保つべき戒(修行者としていきる規則)であり、比丘(男性僧侶)は二五〇戒、比丘尼(女性僧侶)は三四八戒ありました。
 菩薩戒とは、大乗仏教における戒で、十の重要な(犯した場合には罪の重い)戒と、それに準じた四十八の戒が授けられていました。
 当時中国では、僧侶は小乗の具足戒を受けた後に菩薩戒を受けるのが通例であり、日本においては、具足戒を受けずに菩薩戒を受け、菩薩戒のみでよいとされていたのです。
 中国から見れば、東の小国として扱われていた日本の様式は認められず、具足戒を受けていない道元禅師は、出家したばかりの新米の僧侶として扱われようとしました。


 明全和尚はあらかじめ、その対策を講じていて、何事もなく適切な順列におさまりましたが、道元禅師はあえて対策を講ずることなく、これに抵抗されたのです。
 国家の違いはあっても仏法においては平等であり、戒臘を最も重んずべきではないかと主張されたのです。道元禅師は、三度にわたって上表(天子に意見を述べること)されています。そして、禅宗五山の評議となり、ついに天子、寧宗の認めるところとなり、決裁がおり、ついにその主張が認められたと伝えられます。


 ところで、慶元府寧波港の船上で、道元禅師は一人の中国僧と出会います 。
 この僧侶は、明州の阿育王山という修行道場の典座(食糧の調達から調理や給仕まで、すべて司る責任者)でありました。
 時は、中国の嘉定十六年(一二二三)五月頃。道元禅師にとって大きな出会いでした。
 ある日のこと、六十歳ほどの禅僧が道元禅師の乗った船に、倭椹(しいたけ)を買い求めにやってきました。
 道元禅師にとって初めての中国の禅僧との出会いであったのでしょう。
 さっそく声をかけて、お茶をふるまいました。
 彼は阿育王山という道場の典座で、五月五日の端午の節句を翌日にして、修行僧たちへの供養の材料を買い求めに来ていたのでした。
 典座は、昼食をすませてから、五、六里の道を歩いて港までやってきて、買い物を終えたら直ぐに帰るということでしたが、道元禅師は典座を引き止めて接待しようとされました。
 しかし典座は、典座という役職の大切さを道元禅師に説き、帰って行きました。
 道元禅師は、この典座から、修行とは坐禅をしたり語録を読んだりすることだけではなく、日常生活のあらゆることが大切な修行であることを教えられました。


 さて、道元禅師は中国において、いろいろな禅僧に出会い、様々な貴重な体験をされます。
 こんどは天童山景徳寺での修行中の出来事です。
 道元禅師は昼食を終えて、東の廊下を通って超然斎へ行く途中、慶元府の用という典座が仏殿の前の中庭で、海草を晒しているのを見ました。
 手に竹の杖をもち、笠もかぶらず海草を晒しています。
 太陽の光はカンカンと照らし、敷石は非常に熱くなっています。
 その年老いた禅僧は、背骨は弓のように曲って、眉毛は鶴のように真白で長く、汗をたらたら流しながらあちこち歩き廻って、力を励まして海草を晒しています。
 いかにも辛そうな様子です。
 声をかけ年を聞くと、六十八歳とのことでした。
 なぜ行者(寺の用務を司る未出家者)や雇い人を使わないのかと尋ねると、「他人がやったのでは私の修行にはならない」という言葉がかえってきました。
 また、「今やらないで、いつやる時がありますか」とも言われました。
 道元禅師は、この典座から、自分でやらなければ自分の修行にはならないこと、いつかやろうと思っていたら結局できるものではないことを教わったのです。


 また、ある時、道元禅師が、古人の語録を読んでいた時、たいへんまじめな四川省の出身であるという修行僧「語録を見て、何の役に立つのですか?」と質問されました。
 道元禅師は、「国に帰って人を導くため」、「衆生に利益を与えるため」などと答えましたが、「結局のところ何の役に立つのですか?」と問いかけられ考え込んでしまいました。
 この僧からは、自分自身で教えを実践し、体験し、体得することの大切さを教わりました。
 その後、道元禅師は、語録を見ることをひかえ、坐禅の修行に専念されるようになりました。
 正しい師匠を求める旅も、続いていました。
 台州の天台山を尋ね、報恩光孝寺の笑翁妙湛、瑞巌寺の盤山思卓等、時の中国の高僧を尋ねられたと思われます。
 しかし、いずれも、心より慕い、随うことのできる師匠ではありませんでした。


 そんなある日、老爐という僧に出会い、如浄禅師に参ずることを勧められました。天童如浄禅師(一一六三~一二二八)、この人こそ、道元禅師が求めていた正師(ほんものの師匠)でした。如浄禅師はそのとき天童山の住職になっていたのです。天童山は、道元禅師が修行の旅に出かける前に中国での修行の本拠地にしていた修行道場でありました。昨年、天童山を立って、修行の旅に出かけた後、まもなくこの如浄禅師が、天童山の住職になっていたのです。