道元禅師の御生涯[九]

九、示寂

 永平寺に戻った道元禅師は、この後、一箇半箇の接得につとめられました。
つまり、たとえ一人でも半人でもいいから、自分が中国から伝えた正しい教えを継承する真の弟子の養成を考え、力を尽くしたのです。
 道元禅師は鎌倉から帰った後、永平寺を離れることなく、弟子達に教えを説き、ともに修行しました。道元禅師にとって最も幸せな時期であったと思われます。


 道元禅師は鎌倉から帰った後、永平寺を離れることなく、弟子達に教えを説き、ともに修行しました。
道元禅師にとって最も幸せな時期であったと思われます。
建長五年(一二五三)、道元禅師の身体は、弟子たちへの熱心な説法や、昼夜にわたる法語(『正法眼蔵』等)の撰述、厳しい修行の中で、しだいに衰弱し、病気におかされていました。
 この年の夏、道元禅師の病気はさらに重くなり、弟子の懐奘禅師は看病の日々をおくっていました。
 道元禅師の病は、その後、回復する兆しもなく、半月ほどが過ぎました。
その間にも、京都の波多野氏より、「病気療養のため、是非上洛していただきたい」との再三の要請がありました。
 とうとう道元禅師は、義介禅師に永平寺の留守を任せ、懐奘禅師を連れられて上洛することを決意されました。
八月五日、道元禅師は上洛されます。
京都への旅路は、さぞかし辛い旅路であったと思われます。


 京都では、道元禅師は俗弟子の覚念(かくねん)の邸宅に滞在され、療養されました。
八月十五日の中秋には、次のような句を詠まれています。

  また見んと おもいしときの 秋だにも
    今宵の月に ねられやはする

 そして、建長五年(一二五三)八月二十八日(陽暦九月二十九日)、ついにお亡くなりになりました。
 世寿五十四歳でありました。


遺偈

  五十四年照第一天     五十四年、第一天を照らす。
  打箇勃跳觸破大千     この勃跳を打して、大千を触破す。
  忸            ああ
  渾身無覓活陥黄泉     渾身もとむるなし、活きながら黄泉に陥るも。