道元禅師が天童山に戻ると、すでに如浄禅師が住職として入っており、坐禅修行を中心とした厳格な指導が行われていました。
如浄禅師は、臨済宗・曹洞宗のいずれの宗にも組みせず、両宗の宗旨を兼ね備えて、独自の宗風を振るっていました。
その説法の様子は、猛虎がうずくまるようであり、獅子が吠えるようであり、厳しく激しく、豪快、破天荒なものであったといわれます。
如浄禅師のもとには多くの修行者が入門をもとめて訪れていましたが、そう簡単には修行者の入門を許しませんでした。
しかし道元禅師が天童山にもどった時、なぜか一見して入門を許しました。
道元禅師の仏道を求める心の真実なることを、見て取ったからでありましょう。
こうして道元禅師は如浄禅師と出会い、入門を許され、天童山において以前にもまして厳しい修行の日々を送られるであります。
求道心に燃える道元禅師は、如浄禅師から多くの教えを得ようと、問法の自由を懇願しました。
昼夜、時候にかかわらず、また、あらたまって身支度せずに、如浄禅師の部屋に伺って質問をさせてもらえるよう願い出ました。
如浄禅師は、「父親だと思っていつでも遠慮せずにきなさい」と快くそれを許したのです。その後、多くの問答が交わされてゆきました。
如浄禅師は、常日頃、「もっぱら修行すべきは、坐禅である。
坐禅が悟り(身心脱落)である。
焼香・礼拜・念仏・修懺・看経をもちいず、ただ打坐すればよいのだ」と指導していました。この言葉は、道元禅師の著作のなかにしばしば見られ、学人を励まし、導いています。
一般的に、悟り(身心脱落)とは、修行(坐禅)の結果として得るものとされています。
であれば、修行を積んで、その到達点として悟りがあるということであればわかります。
しかし如浄禅師禅師の言葉は違っていました。
「坐禅は身心脱落である」つまり「坐禅」という“修行”が、「身心脱落」すなわち“さとり”にほかならないというのです。
おそらく道元禅師にも理解しがたい言葉であったのではないでしょうか。
しかし道元禅師は、如浄禅師禅師の言葉をそのまま信じられました。
そしてただひたすら坐られました。
昼夜にわたり厳しい坐禅が続けられました。
そしてある日の早朝の坐禅。
如浄禅師が僧堂(坐禅堂)に入堂して堂内を巡って歩き、修行僧が居眠りをしているのを見て、叱りつけた言葉を聞いた時、道元禅師の迷いは消え去っていました。
そして、早朝の坐禅の後、道元禅師は如浄禅師の部屋を訪ねて、焼香礼拝し、身心脱落したことを報告しました。
如浄禅師は、その真実なることを知って喜び、悟りの証明を与えました。