道元禅師の御生涯[七]

七、越前山中に永平寺を開く

 越前山中に移った道元禅師ら一行には、過酷な日々が待ち受けていました。
 波多野義重の外護があったとはいえ、気候、習俗等も違い、華やかな都とかけ離れた越前の山里での一からの再出発でした。
 しばらく、吉峯寺という古寺に身を寄せることになりましたが、その修行生活は、予想以上に厳しいものでした。
 この年の冬は殊に雪が深く、寒さも厳しいものであったといわれます。
 住み慣れない地で、厳しい冬を乗り切ることは、一山の大衆にとって辛い試練の時期でした。
 ことに苦難であったのは、大衆の食料の供給でした。
 当時、道元禅師に付き従って越前に移った門下は十数人であろうかと思われますが、これらの修行僧の「食」を司ることは、想像以上にたいへんなことであったようです。


 門下の中に義介禅師(一二一九~一三〇九)がいました。
 義介禅師は越前の出身で、十三歳の時、越前の波著寺で、日本達磨宗の懐鑑に就いて得度し、日本達磨宗の消滅にあたり、仁治二年(一二四一)に興聖寺の道元禅師のもとに入門していました。
  義介禅師は、越前出身でしありましたから、知人も多く、生活環境も周知しており、道元禅師は、当然のことながら、義介禅師を最も頼りにしていました。
  そんな中、越前に移った道元禅師の僧団は、波多野義重の外護を得て、次第に修行道場の伽藍をととのえていきました。



 この間も道元禅師は『正法眼蔵』の撰述・示衆を続けながら、同時に、中国の天童山にも模した本格的な叢林の建立にむけて準備をすすめ、ついに寛元二年(一二四四)には大仏寺が誕生するのです。
 この、本格的な修行道場の建立は、道元禅師の永年の悲願であったと思われます。
 寛元四年(一二四六)六月には、永平寺と改称され、ここに名実ともに、正伝の仏法を宣揚し実践する礎が築かれ、教団(僧団)が確立し、さらに拡充がはかられてゆくのです。