住職就任のご挨拶


平成十五年(二〇〇三)一月十八日に当山第二十七世佛山宗道大和尚が遷化され、同二月一日付をもって曹洞宗管長より辞令を受け、第二十八世住職に就任いたしました。
昭和五十八年七月に副住職に就任するにあたり、すでに檀徒総代会で後任住職としての了承を頂いておりましたので、住職遷化にともない自動的に副住職が住職となった次第です。

とはいえ、私といたしましては、自らの所信を述べ、その上で檀信徒の皆様の信任を得て住職になるという形式をとりたいと以前より考えておりました。
本来、寺院は住職(個人)の所有するものではなく、世襲すべきものでもなく、住職もまた寺院を支える者の一人であり、檀信徒の皆様すべてによってよりよいかたちで護持していかなければならないものであると思うからです。
信任を得るという形式はとれませんでしたが、ここに以下、私の思うところを申し上げてご挨拶とさせて頂きます。
 

角田泰隆住職のお話 >> 記事詳細

2011/12/08

釈尊の六年間の苦行の意義

Tweet ThisSend to Facebook | by:角田泰隆
かつて学生時代、駒澤大学の仏教研修館「竹友寮」にいた時のこと、十二月八日の成道会法要の後の挨拶で、時の駒澤大学の学長であられた故岡本素光先生が、次のように語られたことを今でも覚えている。
「釈尊は、六年間の苦行の後、お悟りを開かれたが、お悟りを開かれた釈尊は、『苦行は無用である』と教えられた。もし、釈尊が六年間の苦行をなされなかったら、はたして釈尊はお悟りを開かれていたであろうか? 君たち、そこのところをよくよく考えて、自分のものとしなさい。」
この程度の非常に短い話であったと記憶しているが、この岡本先生の問いかけが、まだ仏教のことについてあまり知識がなかった私の心を大いに動かしたことは確かである。先生は、私たちに問いかけただけで、何も自らの考えを示すことなく立ち去られた。

おそらく先生には、自らの答えがあったのであろう。しかし、それを何も語られなかったところに、かえって先生の偉大さと親切心を、今にして感じる。答えは自分で探さなければならないのである。

その後、「苦行」とは何か、「苦行」をどのように受けとらえたらいいのか、ということが私の一疑団となっていた。
16:00 | 釈尊