道元禅師は、正治二年(一二〇〇)正月二日(陽暦一月二十六日)、京都にお生まれになりました。
父は村上源氏の流れを汲む久我道具(一説に道具の父道親)、母については不詳ですが、摂関家の職者にして宮中に重んじられた藤原基房の関係の女性ではないかとされています。
道元禅師は幼少の頃からたいへん聡明であり、四歳の時には中国初唐期の詩人李仄の詩を集めた『李仄百詠(雑詠)』を読まれ、七歳の時には『毛詩』(「詩経」の別名)や『春秋左氏伝』(「春秋」の解説書)を読まれたとされます。
道元禅師は、八歳の冬、最愛の母親を失われました。
悲しい別れであったと思われます。
そして、この頃から仏教にひかれるようになられ、九歳の時には仏教の入門書とも言われる『倶舎論』を読まれています。
おそらく、道元禅師の母親は臨終にあたって、わが子が朝廷と幕府の権力抗争に巻き込まれるのを心配して、幼き道元禅師に出家をすすめたのではないかと思われます。
その後、道元禅師は藤原基房の猶子(養子)となりますが、基房は道元禅師を元服させて朝廷の要職にすえようと考えていました。
それをさとった道元禅師は、元服を間近にして、十三歳の春、祖母と伯母のいる木幡の山荘に行き、出家の志を伝え、比叡山の麓に住む外舅(母の兄弟)の良顕法眼を訪ねて相談しました。
出家を求める道元禅師に伯父の良顕は驚きますが、その志の強固なることを知って、道元禅師が仏の道に入る手助けをし、さっそく道元禅師は比叡山横川般若谷の千光房に登ることになりました。
翌年四月には天台座主公円僧正について剃髪・得度し出家の念願を果たされました。
道元禅師は純粋な求道心をもたれて出家され、比叡山で仏教を学ばれました。
当時の比叡山は、まさに仏教の総合大学であり、最高学府であったとも言われます。
鎌倉新仏教の教祖がともにここで学んだことはよく知られているところです。
道元禅師も、ここにおいて十三歳から十八歳にいたる六年間、当代一流の高僧に参じて修行されました。
しかし、純粋な求道心にもえて出家された道元禅師が修行中に見られたものは厳格に戒律を守らない僧侶たち、そして名声を得ることや、高い地位に就くことを願って修行している者たちでした。
道元禅師も、仏教の指導者や先輩達に、「しっかり修行して、有名な高僧になれ」と教わりました。
しかし、道元禅師はそのような修行に疑問をもつようになったのです。
中国の高僧の伝記を記した『高僧伝』を読まれたとき、僧侶としての名誉を求める生きかたは、本当の僧侶の生き方ではなく、むしろ名誉や利益を求める心を捨てて生きる道が、僧侶としてのほんものの生き方であることを知りました。
そして、道元禅師の思いは、中国(宋)の禅の高僧へと向けられることになったのです。
のちに道元禅師は、ほんものの仏教を求めて、中国に渡ることになるのです。
また、道元禅師は比叡山での修学時代に、一つの大きな疑問をもちました。
当時、比叡山では次のような教えが説かれていました。
本来本法性……人間は本来、仏の心をもち、
天然自性身 ……生まれながらに仏の身体を有している
道元禅師の疑問は「ほんらい仏であるならば、なぜ、仏となることを願い、厳しい修行を積む必要があるのだろうか」というものでありました。
ところが、当時の比叡山の指導者に尋ねても、明解な答えは返ってきませんでした。
最後に、三井寺の公胤(一一四五~一二一六)を訪ねて、この質問をしました。
公胤は当時の顕密の明匠(天台学・密教学の優れた師)でありましたが、その質問にたやすく答えることはせず、道元禅師に中国(宋)に渡って禅の教えを学ぶことを勧めました。
『高僧伝』を読んで中国の禅僧にあこがれていた道元禅師は、いよいよ、入宋(中国留学)の志を深められていきます。
時に道元禅師は、その中国に二度わたって禅を学んで来た、建仁寺の栄西禅師 (一一四一~一二一五)を訪ねています。
しかし、晩年の栄西禅師は、おもに鎌倉におり、会うことができず、その弟子の明全和尚(一一八五~一二二五)に出会いました。
この方は、栄西禅師が認める優れた弟子で、道元禅師はこの明全和尚の下で、禅の教えを学ぶことになります。
そしてこの明全和尚も、中国に渡って禅を学びたいと思っていました。
ほんものの師に会いたい、ほんものの教えを学びたいという志を同じくする二人の出会いは、おおきな力となって、中国留学がやがて実現するのです。
それは貞応二年(一二二三)の春、道元禅師、二十四歳の時のことでした。