摩訶
原語(梵語、サンスクリット語)の「マハー」の音訳(写音による漢訳)。意訳(意味による漢訳)では「大」。
「大いなる」という意。
般若
原語「プラジュニャー」の音訳。
意訳では「智慧」。
一般的に言われる知(知識、分別知=思量分別する能力)と区別するために「般若」と音訳のままよく用いられる。
また無分別知とも解釈される。
「真実を正しく知る能力」、あるいは「よりよく生きることに関わる深く優れた智慧」の意。
波羅蜜多
原語「パーラミター」の音訳。
意訳は「到彼岸」で彼岸(悟り)に到ること。
「完成」とも訳される。
摩訶般若波羅蜜多で「大いなる智慧の完成」と訳すこともできる。
心経
心の原語は「フリダヤ」で、心臓の意味であるが、精髄・精要を意味する。
また、ものの中心(芯)という意味がある。
ここでは、「肝心要の教え」の意。
観自在
原語は「アヴァローキテーシュヴァラ」で、玄奘は「観自在」と意訳したが、鳩摩羅什は「観世音(観音)」と訳し、智慧輪は両方を取って「観世音自在菩薩」と訳している。
多くの人々をよく観察して自由自在に救う働きを意味している。
菩薩
原語「ボーディサットヴァ」の音訳で、菩提薩タ(ばだいさった)の略語。
「さとりを求める者」「求道者」の意。
五蘊
原語「パンチャ・スカンダ」の意訳。
「五つの集まり」の意。
五つとは「色」「受」「想」「行」「識」を指す。
「色」は原語「ルーパ」の意訳で「形のあるもの」を意味し、ああらゆる物質的現象として存在するものを指す。
あらゆる存在(形あるもの)が、「色」という漢字に置き換えられてのは、私たちが眼によって見ている対象物としての存在は、色の違いによってその形が認識されると考え、眼で色によってその形を認識しているところのあらゆる存在のことを「色」と漢訳したものと考えられる。
「受」は原語「ヴェーダナ」の訳で、いわゆる「感覚」「感受」のこと。
苦や楽などを感じることをいう。
「想」は原語「サンジュニャー」の訳で、「表象」の意。
つまり知覚・感覚して対象物が意識されることで、青・黄などの色を了解したり、対象物が何であるかを、記憶や想像によって知ることをいう。
「行」は原語「サンスカーラ」の訳で、外界対象を知覚・感覚して、感じ、意識し、認識したものが一定の方向に向かって働いて行くことをいう。
意志するこころの働きである。
「識」は原語「ヴィジュニャーナ」の訳で、「分別して知る」という意。
我々は、眼・耳・鼻・舌・身・意という六根(主体的な認識作用)によって、色・声・香・味・触・法という六境(客体的な対象世界)を認識している。
その認識が眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識であり、「識」はこの六識の総称である。
*十八界
(六根)(六境)(六識)
眼………色………眼識
耳………声………耳識
鼻………香………鼻識
舌………味………舌識
身………触………身識
意………法………意識
一切の存在はこの「色」「受」「想」「行」「識」の五蘊によって構成されているとする。
すなわち五蘊とは、世の中の一切の物質的現象的存在、あるいは物質的現象的存在と精神的作用とが和合したところの存在のすべてをいう。
空
原語「シューニヤター」の訳で、原意は「何もない状態」「ゼロ(零)」を意味するが、何もないというのは何も存在しないというのではなく、この世に存在するあらゆる存在は実体的存在ではないことを意味する。
すなわち、あらゆる存在は先の五蘊(色・受・想・行・識)あるいは四大(地・水・火・風)といった要素が関係し合って仮りに和合して存在しているのであって、現象(現に象あるもの)としてはそこに有っても、変化してゆくものであり、永遠に一定不変ではないことをいう。
舍利子
釈尊の十大弟子の一人であるとされる「シャーリプトラ」のことで、智慧第一とされる。
舎利弗、鷲鷺子ともいわれる。尚、『維摩経』弟子品には、
①舎利弗……………………………智慧第一
②大目嗹連(目連)………………神通第一
③大迦葉(迦葉)…………………頭陀第一
④須菩提……………………………供養第一
⑤富楼那弥多羅尼子(富楼那)…説法第一
⑥摩訶迦栴延………………………論議第一
⑦阿那律……………………………天眼第一
⑧優波離……………………………持律第一
⑨羅詭羅……………………………学習第一
⑩阿難………………………………多聞第一
の十大弟子が挙げられる。
先に「般若」のところで解説したように、「般若」とは「智慧」のことであり、この『摩訶般若波羅蜜多心経』は“大いなる智慧の完成のお経”といえるが、このお経が智慧第一とされた舍利子に大して説かれた形を取っていることは興味深く、意味あることであると思われる。
色不異空空不異色色即是空空即是色
「色」が「空」であることを示したもの。
「色」とは、眼に見えているところのすべての存在のこと。
我々は眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(臭覚)・舌(味覚)・身(触覚)などによって外界のあらゆるものごとを認識するが、最も中心的には眼で物を見て外部の在り方を知る。
その場合、色(いろ)によって形を判断し、認識するので(もちろん遠近感によって、光によって、周波数によって、などなど、種々の認識方法も用いているが)、眼に見えているあらゆるもの、色(いろ)によって認識しているあらゆるもの、つまり、「すべての存在」を「色(しき)」と言う。
「空」とは、すべての物事は因縁和合によって生起している現象であり、ある時、ある場所で、ある条件ののもとに象(かたち)を現しているのであって、ほかのものと関わらず存在し、それ自体でいつまでも変わらずに存在し続けるものではないことを意味する。
つまり、「固定した実体がない」「一定不変でない」「移り変わりゆく」という意味。ゆえに、色即是空とは、すべての存在は一定不変ではなく、移り変わりゆく、固定した実体がないものであることをいう。
受想行識亦復如是
受・想・行・識(前出)も「色」と同様に「空」であることを言ったもの。
諸法
この世に存在するすべての物質・現象のこと。
不生不滅
「諸法」(あらゆる存在)は「空」であるから、生ずることも滅することもない。
「空」の部分で説明したように、「諸法」はさまざまな要素が関係し合って仮りに和合して存在しているのであって、現象(現に象あるもの)としてはそこに有っても、変化してゆくものであり、永遠に一定不変ではないことをいう。さまざまに相を変えて存在してゆくのであり、新たに生じたり、全く消滅してしまったりするものではない。
不垢不浄
「諸法」は「空」であり、本来、清浄(不垢)であるとも不浄であるとも言えない。
浄・不浄は人間の思量分別によるものであって、本来、存在そのものにはキレイもキタナイもない。
不増不減
「諸法」は「空」であって、増えることもなければ減ることもない。
つまり、さまざまな要素がさまざまに結合・和合して一切は存在しているのであって、全体から見れば増えも減りもしない。
たとえば、大気圏を含めた地球上の存在は、箇々の存在は増えたり減ったりしているように見えても、全体としてはその質量には変わりがないようなものである。
無眼耳鼻舌身意
眼・耳・鼻・舌・身・意が無いということ。これらは、次の色・声・香・味・触・法を見聞覚知するもの(主体)であるが、「無い」と言っても、全く存在しないということではなく、本来「空」であることをいう。
無色声香味触法
色・声・香・味・触・法が無いということ。
これらは先の眼・耳・鼻・舌・身・意によって認識されるもの(客体)であるが、これも本来「空」であって実体的に存在するものではないことをいう。
無眼界乃至無意識界
眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界が無いことをいう。
これも、先の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六境(色・声・香・味・触・法)が本来「空」であるから、六根が六境を認識して得るところの六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)も「空」であることをいう。
ここのみに「界」(要素の意)の語が付されているが、六根も六境も、この六識もすべて「界」であり、合わせて「十八界」という。
仏教では、世界はこの「十八界」より成っていると説き、これらがすべて「空」であることをここでは示している。
無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽
十二支の因縁の各支も無く、それが滅尽することも無いことをいう。
これも「無い」とはいっても本来「空」であるからこのように示している。
*十二(支)因縁
①無明…過去世より無限に続いてきている迷いの根本である無知
②行……「無明」によって作る善悪の行業
③識……「行」によって受けた現世の受胎の一念
④名色…胎中における心と体
⑤六入(六処)…胎内で整う六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)
⑥触……触覚(出胎してしばらくはこの触覚のみ有るとされる)
⑦受……苦・楽・好・悪などを感受する感覚
⑧愛……苦を避け楽を追求する根本欲望
⑨取……自己の欲するものに執著する働き
⑩有……「愛」「取」によって種々の業を作り、未来の結果を引き起こす働き
⑪生……未来の果としての生
⑫老死…「生」によって必然的に受ける老と死
このように、十二因縁では、過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触・受)、現在の因(愛・取・有)と未来の果(生・老死)という三世にわたる二重の因果(三世両重の因果)を示している。
十二因縁では、因果の法則によって「無明」があるので「行」があり、「行」があるので「識」があり、乃至「生」があるので「老死」があると説き、故に「無明」が滅尽すれば「行」が滅尽し、「行」滅尽すれば「識」が滅尽し、乃至「生」が滅尽すれば「老死」が滅尽すると説くが、『般若心経』では、すべて「空」であるから、そもそも「無明」も無く、もともと「無明」が無いのであるから「無明が尽きる」ということも無いと説いている。
無苦集滅道
苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)も無いという意。
*四諦(四聖諦)…四つの真理
①苦諦…人生は苦であるという真理。
生・老・病・死の四苦、これに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦という。人生はこれらに満ちているという真理。
②集諦…苦の原因は渇愛にあるという真理。
③滅諦…苦の原因を滅したところに理想の境地があるという真理。
④道諦…理想に達するためには、道(八正道)の実践が必要であるという真理。
この四諦説は、まず苦諦を説くが、先に十二因縁について、本来「空」であるから「生」も「老死」も無いとする『般若心経』では、苦・集・滅・道という四つの真理も本来「空」であるとするのである。
無智亦無得
真理を悟る智(能証)もなく、悟られるような真理(所証)もないう意。
本来「空」である立場からすれば、このようにも言われる。
無所得
所得するものがない意。
本来「空」であるから、これといって得ることのできる確固たるものはない。
心無ケイ礙
「心にケイ礙なし」と読むが、原語は「心を覆うものがない」の意。
迷悟・生死・善悪等の意識によって心を束縛されることがないという意味。
顛倒夢想
原語ヴィパリヤーサの訳。
正しくものを見ることができない迷いをいう。
究竟涅槃
「究竟」とは、原語ウッタラの訳で「最上至極のところ」の意。
行き着くところに行き着く意。
「涅槃」は原語「ニルヴァーナ」の音訳で、一切の迷いから脱した境地をいう。
三世諸仏
過去・現在・未来の三世にまします無数の多くの仏たち。
阿耨多羅三藐三菩提
原語「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」の音訳。
意訳では「無上正等正覚」。
この上なく正しく平等な覚りのこと。
大神咒
原語は「マハー・マントラ」。「マハー」は前出「摩訶」に同じ。
「マントラ」は真言(如来の真実の語)のこと。
「マントラ」とは、元来ヴェーダに見られる讃歌・祈祷句・呪文を意味するが、それが仏教にとり入れられ、仏教における「呪文」を意味し、さらに「真言」と訳された。
大乗仏教では、「ダーラニー」(陀羅尼)と並んで広く用いられた。
陀羅尼は、漢訳経典では「能持」とか「総持」とか訳され、元来、「すべてのことをよく記憶して忘れない力」を意味し、また、保持するという意味を持ち、当初は仏教の教理や言葉を記憶し、忘れないための祈りの言葉として用いられた。
記憶して忘れないようにするには、口で唱えて覚えるのがもっとも効果的であることは、我々が日頃唱える経典の記憶術としても証明されているところであるが、この口でブツブツと唱えて記憶する姿をさして陀羅尼と呼ぶようになり、ひいては、この唱える言葉(呪文)そのものを陀羅尼というようになった。
現在では「呪文」そのものを陀羅尼と言い、かえって、呪文そのものに「善法を持して散失せしめず、以て悪法をさえぎる力あり」などと解釈される。
特に密教では、「マントラ」あるいは「ダーラニー」は真理そのものであると尊重し、翻訳することなくそのまま口に誦える。
誦えれば真理と合一することができると説かれる。
大明咒
真言(マントラ)のことを、また明咒という。
迷いの闇を明るく照らす真言であることによる。
無上咒
この上ない真言の意。
無等等咒
無等等とは「無比」「比類無い」とい意。
比類のない真言の意。
ギャー諦ギャー諦 波羅ギャー諦
波羅僧ギャー諦 菩提娑婆訶
原語は「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー」。
決定的な翻訳は困難であるとされ、古来、不翻(翻訳しない)とされている。
故に漢訳もチベット訳も音訳のみで、意訳していない。
中村元博士は、一訳として、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ」あるいは「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー」と訳している。
「スヴァーハー」は成就などと訳されるが、願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘語である。
(註の作成にあたって、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)を参照した。)